足を洗いたい気持ちと向き合い続けたい気持ちの相克。
気持の相克のことを葛藤と言うんだよ。と習ったのはどこかのタイミングの国語ないし現代文の授業だった。
ストラグルせよ、文章と、自分と向き合い格闘するんだ、ということを教わったのは高校の授業だった。
何かを覚えるということは、それを持たない自分を捨てることなんだ、と気付かされたのはたしか大学生のときのことで。
長いトンネルを抜けて今こうして教える側に立ったり座ったりしているわけだけれど、自分にはどれだけ生徒に気付きや学びを与えることができているのだろう、と思うと全然だ。というか全然わからない。
意外と雑談のような瞬間や先生の生き方考え方のような本題ではない部分にこそ影響を受けてきたように思う。
とすると、自分が意図しない所で何か生徒に伝わっているところもあるのかもしれない。
予備校というのは、基本的には学校とは違い、人間としての成長よりは受験突破を強く意識した場所にならざるをえない。
自分もその位置づけで自己規定してきた。
ただ、そうすることが本当に最短の道とは必ずしも言えないのかもしれない。
生徒のやる気を引き出すには、いろいろなやり方があるはず。
それと、自分としても点取りゲームを自分でこなすのは結構得意で愉しかったけれど、それを一生懸命に説明し納得してもらい習得してもらうというのは結構、特にそれが苦手な子に対してやるのはつまらないと思ってしまう部分が否めない。
そんなことやるより、もっと教えたいこと、知っておいてほしいことはあるのに…と思いつつそれをしゃべらないというのはどうなのか。
現代文の指導をするなら新聞や本を勧めたりそれらについて多少論評したりするというのが回り道のように見えて王道なのではないか。
古文の指導をするのであれば、自分ももっと、古典作品に親しみ、愛するべきなのだろうか。
漢文は受験レベルで言われていることと、受験レベルの文章を正しく読むために必要な知識レベルにはかなりの差があるが、そこを補うべく努力した上で、生徒にもそのエッセンスを伝えるべきなのだろう。
英語についても、見えやすい部分では発音をもっと滑らかにする、文法説明をよりクリアに脳内に体系化する、長文の自分なりの指導法を確立する、等が必要なのだろう。
結局のところ、所詮指導歴が圧倒的に足りないのだ。
学生講師の方が場合によっては経験豊富なのだから、10年選手の先生方、まして専門科目を持つ方々に比べて自分を卑下していても仕方ない。
「やるべきこと」は多いが、優先度や必要性がいまいちよくわからないのが問題だ。
そもそも、あと何年この指導形態を続けるのかも見通せないので、今後に広い意味で続いていくべく努力していく必要がある。
その一方で、目の前の生徒に真剣に向き合い、成果をあげてもらうこと。
課題は山積、光明は筋細く、道遠く――
とはいえ一歩一歩、頑張っていかなくては。